複雑な社会を、複雑なまま捉えよう
/内藤 剛汰
2021年に「物理・数学の博士はAIに代替される」と予見し、ChatGPT登場後に休学した著者が、複雑な世界を単純化したモデルで捉えるのではなく複雑なまま理解する重要性を説く。
2021年の春、大学に入学した。
最初の学期に、1年生のオリエンテーションを兼ねた研究授業があった。僕はそこで数理物理科の学生として「物理の博士も数学の博士も、AIにとって代わられる」と発表した。同調してディスカッションしてくれる情報・コンピュータ好きな数学教授もいたが、理論物理の成果は実験によって得られるものではないというやつもいた、何を言ってるんだという空気だった。

2年後、ChatGPTが出た。
2023年の春、僕は大学を休学した。物理や数学をやるよりも、物理や数学をやるためにAIをやったほうがいい。そう判断して休学した。
世界もそう動いた。AIをより賢くするためのAIを作り、そのAIがさらに賢いAIを作る。再帰的な知能の加速。AGIへの一直線。2021年に1年生が言った「とって代わられる」という直感は、世界の合意だった。
あの判断は順当だったと思う。
でも最近、ずっと引っかかっていることがある。
人間は、世界を「簡単にする」ことで理解してきた
ニュートンが万有引力の法則を書いたとき、彼がやったことの本質は「世界を簡単にした」ことだ。
リンゴが落ちる。月が回る。潮が満ちる。バラバラに見える現象の背後に、一本の数式を見つけた。F = ma。あらゆる運動を、たった3文字に圧縮した。

理論物理学も理論数学も、やっていることの本質は同じだ。複雑な世界を、人間の脳が処理できるサイズに縮める。変数を減らし、ノイズを削ぎ落とし、美しい数式に凝縮する。E = mc²。シュレーディンガー方程式。オイラーの等式。
人間の脳は、せいぜい7±2個のチャンクしか同時に保持できない。そしてこの制約は偶然じゃない。脳は「予測誤差を最小化する装置」だ。次に何が起きるかを予測し、予測と現実のズレだけを処理することで、膨大な情報を圧縮して生き延びてきた。F = maもE = mc²も、この圧縮アルゴリズムの最高傑作だった。
人間の理論とは、生存のための圧縮アルゴリズムだった。
300年間、それで十分だった。
ディープラーニングは「簡単にしない」
ディープラーニングが根本的に違うのは、ここだ。
GPT-4のパラメータ数は、推定で1兆を超える。1,000,000,000,000個の特徴量。人間の脳が同時に把握できる7個のチャンクとは、桁が8つ違う。
これが意味することは単純で、深い。
ディープラーニングは、世界を簡単にしなくていい。
人間がF = maに圧縮しなければ扱えなかった現象を、1兆個のパラメータでそのまま飲み込む。変数を減らさない。ノイズを削がない。複雑なものを、複雑なまま保持する。
つまり何が起きているかというと、世界モデル関数ができている。
入力:世界の状態。出力:次の世界の状態。その間にあるのは、人間が読める数式ではなく、1兆個のパラメータが織りなす、人間には感知不可能な特徴量の海。

天気予報が証明したこと
これが一番よく見えるのが、天気予報だ。
従来の気象予報は、人間の「圧縮」の最高傑作だった。大気の運動をナビエ・ストークス方程式に落とし込み、初期条件を与えて数値的に解く。欧州中期予報センター(ECMWF)のモデルは、何十年もかけて磨き上げられた人類の知恵の結晶だ。「なぜ低気圧が発達するのか」「前線がどう動くのか」を、流体力学の原理から説明できる。美しい。納得できる。
でも、当たらない。
初期条件の微小な誤差がカオス的に増幅される。バタフライ効果。実用的な予報限界は7〜10日。3日先ですら不確実性が急激に上がる。300年かけて磨いた方程式の限界が、そこにある。
2023年、GoogleDeepMindのGraphCastがScienceに掲載された。やっていることはシンプルだ。過去40年分の気象データをそのまま学習し、「今の大気 → 6時間後の大気」という写像を直接覚える。方程式は一切解かない。ナビエ・ストークスの「ナ」の字も出てこない。
結果:1380個の検証対象のうち、90%で従来モデルを上回った。10日先の予報で差は顕著になる。しかも、従来モデルが数時間かかる計算を、1分以内で出す。
2024年、ECMWFは自前のAIモデル「AIFS」を正式に運用化した。人類が半世紀かけて積み上げた物理モデルの横に、方程式を一切知らないAIモデルを並べて走らせている。これが2026年現在の天気予報の現実だ。

ハリケーンの軌道予測ではAIが「トップモデル」として認識され始めた。中国本土の降水予報では、GraphCastが従来モデルより約12%精度を上げた地域がある。
もちろん万能じゃない。稀な極端事象では一般化しにくく、物理的な制約を明示的に守らないから、長期的な一貫性で物理モデルに劣る場面もある。
でも方向は明らかだ。
複雑な大気を、複雑なまま飲み込んだモデルが、美しい方程式で圧縮したモデルに勝ち始めている。
これは天気の話じゃない。人間の「理解」の話だ。
「分かる」と「解る」が分離する
日本語には「分かる」と「解る」がある。
「分かる」は、事実として知っていること。明日の降水確率は87%。リンゴを離せば落ちる。タンパク質のこの配列はこの構造をとる。正解を持っていること。
「解る」は、腹の底に落ちること。なぜリンゴが落ちるのか、質量が時空を歪めるからだと知った瞬間の、あの背筋の震え。E = mc²のたった5文字で宇宙の仕組みが見えた気がする感覚。正解ではなく、納得を持っていること。

AIは「分かる」の権化だ。予測し、生成し、最適化する。1兆次元の空間に答えを持っている。でも、その答えは人間が「解る」形をしていない。7チャンクの脳には収まらない。ブラックボックスの中に正解があるが、納得はない。
一方、理論物理や理論数学は「解る」を生む装置だった。300年間、人間は「解る」ことで「分かる」に近づいてきた。この二つは、ずっとセットだった。
いま、それが分離した。
「分かる」はAIが独占し始めている。「解る」だけが、人間の側に残っている。
ここで、2021年の自分を思い出す。
あのとき僕は「AIのほうが賢くなるから、物理博士も数学博士もいらなくなる」と言った。AIが「分かる」を奪うから、研究者は不要になる。そういう論理だった。
間違ってはいなかった。でも、雑だった。
僕が見落としていたのは、物理学者や数学者がやっていたことの半分は「分かる」じゃなくて「解る」だったということだ。彼らは予測精度のために数式を書いていたんじゃない。宇宙を、自分の腹の底に落としたくて書いていた。
AIが「分かる」を全部持っていっても、「解る」は残る。そして「解る」は、人間にしかできない——というより、人間にしか必要ない。AIは納得を必要としない。腹落ちしなくても予測できるから。
あの発表で僕が本当に言うべきだったのは、「博士がいらなくなる」じゃなくて、「博士の意味が変わる」だった。
研究は「趣味」になる
ここまで書いて、残酷な結論が見えてくる。
世界が本当に必要としているのは「予測」と「操作」だ。明日の天気が当たること。病気が早期に発見されること。交通渋滞が最適化されること。タンパク質の構造が分かること。
そしてその「予測」と「操作」において、1兆パラメータの世界モデル関数は、人間が300年かけて磨いてきた理論体系を、すでに追い越し始めている。AlphaFoldがタンパク質の立体構造予測で構造生物学者を超えたように。GraphCastが気象学者を超えたように。
じゃあ理論は? 数式は? 人間が世界を「簡単にする」ことで得てきた「納得」は?
世界は、それを必要としていない。
世界が求めているのは「精度」であって「納得」ではない。企業が投資するのは「予測力」であって「美しい数式」ではない。社会が報酬を払うのは「結果を出す力」であって「宇宙の仕組みが腑に落ちた感覚」ではない。
人間の理論研究——世界を簡単な形で捉え直し、腹の底に落とす営み——は、世界を動かすエンジンの座から降りつつある。
じゃあ何になるのか。
趣味になる。
趣味としての研究
これは貶めているんじゃない。むしろ逆だ。
趣味とは、「世界がそれを必要としていないにもかかわらず、自分がそれをやりたいからやる」ということだ。報酬がなくても、誰にも評価されなくても、腹の底にストンと落ちるあの感覚のためだけに数式を追う。
考えてみれば、科学の黎明期はそうだった。ニュートンもオイラーもガウスも、研究で食っていたわけじゃない(まあニュートンは造幣局長官だったが)。知りたいから知った。面白いから解いた。世界がそれを求めていたから研究したのではなく、自分の中の「なぜ?」が止まらなかったから研究した。
AIが「予測と操作」を引き受けてくれる世界では、研究は再びそこに戻る。実用性という重荷を下ろして、純粋な知的欲求だけで走れる場所に戻る。
写真が発明されたとき、写実絵画は死んだと言われた。でも実際に起きたのは印象派の誕生だった。「現実を正確に写す」という実用的使命から解放された瞬間に、絵画はむしろ爆発した。研究も同じことが起きる。「世界を正確に予測する」という使命をAIに渡した瞬間に、理論は実用の鎖から解き放たれる。
「なぜリンゴは落ちるのか」という問いに、AIは「97.3%の確率で落ちます」と答える。物理学者は「質量が時空を歪めるからだ」と答える。世界はAIの答えで回る。でも、「質量が時空を歪める」と知った瞬間に走る背筋の震えは、AIの予測精度とは何の関係もない。
あの震えのために研究する。
それは趣味だ。そして、趣味であることは、その営みの価値を一切損なわない。
複雑な社会を、複雑なまま
最後に、もう少し広い話をする。
ディープラーニングが示したのは、「複雑なものを複雑なまま扱える知性が存在しうる」ということだ。人間は7チャンクの脳で世界を圧縮するしかなかった。でもそれは、知性の唯一の形ではなかった。
社会も同じだ。
僕たちは社会を「理解」するために、いつも簡単にしてきた。右と左。保守とリベラル。勝ち組と負け組。理系と文系。Z世代とミレニアル世代。複雑な社会を、2つか3つのラベルに押し込んで、「なるほど、そういうことか」と納得してきた。
でもその「納得」は、天気予報のナビエ・ストークス方程式と同じで、現実の精度とは乖離している。社会は右でも左でもない。人間は勝ち組でも負け組でもない。Z世代は一枚岩じゃない。7チャンクに収めた瞬間に、溢れ落ちるものがある。
ディープラーニングが天気を「簡単にせずに」予測できるなら、社会も「簡単にせずに」捉えることができるはずだ。1兆のパラメータが、ラベルに還元できない個々人の複雑さを、そのまま保持できるはずだ。
もちろん、それは人間の「納得」を生まない。
「社会はこうなっている」と腹落ちする美しい理論は、そこからは出てこない。1兆次元の特徴量空間に散らばった「社会モデル」は、人間が読める形をしていない。
でも、精度は高い。
僕たちは長い間、「理解できること」と「正しいこと」を同一視してきた。人間が納得できる形で説明できるものだけが、信頼に値すると思ってきた。
でもそれは、人間の認知的限界を世界の限界と取り違えていただけかもしれない。
世界は、人間に理解されるために存在しているわけじゃない。
落合陽一はこれを「計算機自然」と呼んだ。計算機が十分に発達すると、それはもう道具じゃなくて、自然そのものと見分けがつかなくなる。僕たちが森や海を「理解」せずにただその中で生きているように、計算機自然の中でも、人間は1兆次元の知性を「理解」せずにただその恩恵の中で生きることになる。
複雑な社会を、複雑なまま捉えよう。そしてその「複雑なまま」を扱えるのが人間じゃなくなったとき——人間はその巨大な自然の辺縁に立つことになる。

1兆次元の海が世界を丸ごと飲み込んで、予測し、操作し、回し続ける。人間はその海の中身を読めない。でも、縁に立って眺めることはできる。波の形を見て、「きれいだな」と思うことはできる。そしてその波を、自分の手で7チャンクに縮めて、「こういうことか」と呟いてみることもできる。正確じゃない。精度も低い。でも、腹の底にストンと落ちる。
それを、研究と呼ぶ。
それは趣味だ。
世界はそんな趣味に興味がない。でも、僕はある。
最初の記事で、僕は「数学を使ったアウトプットはAIに置き換わる。でも数学で世界を見る力は残る。だから大学には戻る」と書いた。
あれから3年。あのとき自分で出した答えに、また近づいた。
数学のアウトプットを求められているから大学に行くんじゃない。数学で社会を見たい、解りたいから大学に行く。それがずっと言いたかったことだったんだと、このエッセイを書きながら腹落ちした。