眼光出版

何でもするから飯をくれ——交換の席がなくなる世界で

/内藤 剛汰

柄谷行人の交換様式論から出発。AGI時代には差し出すもの自体がなくなり、「交換の席」そのものが消える。

0. この記事を書く理由

『チ。』は「知」のために何を捧げるかを問うた。命を、血を、正しさの独占を。硬貨を捧げればパンが得られる。労働を捧げれば報酬が得られる。この構造は何千年も変わらなかった。何かを捧げれば、何かが返ってくる。

このセリフを読んだとき、ずっと頭に残った。

あの問いは「捧げるものがある」ことが前提になっている。じゃあ、捧げるものが何もなくなったら? 何を差し出せば飯が食えるのか。差し出すものがない人間は、どうやって食っていくのか。


1. 交換の席——柄谷行人の交換様式論

哲学者の柄谷行人は、人間社会の構造を「交換のあり方」で読み解いた。交換様式論と呼ばれるその理論では、社会を動かしてきた交換のパターンを四つに分類する。

様式A(互酬交換)——贈り物を贈り、受け取り、返す。氏族社会の掟。ここには自由も平等もあるけれど、返礼を強制する呪力もある。

様式B(服従と保護)——支配者が税を取り、代わりに民を守る。国家の原理。

様式C(商品交換)——貨幣と商品の交換。見知らぬ者同士が市場で取引する。資本主義のエンジン。

様式D(Aの高次元回復)——A・B・Cすべてを超克した、来るべき新しい連合。

僕たちの社会は、Cが支配的だ。労働力を売って賃金を得る。スキルを磨いて市場価値を上げる。履歴書に書けることを増やして、自分という商品の値札を書き換える。「みんなのやりたい仕事の未来」で書いた「賢さが通貨だった時代」は、まさに様式Cの全盛期だった。

僕たちはずっと、この交換の席に座ってきた。何かを差し出して、何かを受け取る。体力でも、スキルでも、時間でも。差し出すものの形が変わっても、「差し出す↔受け取る」の構造は変わらなかった。

何でもするから飯をくれ。

この言葉は、様式Cの最もプリミティブな形だ。差し出せるものがある限り、この席には座れる。


2. 交換様式Cの終わり

AIは、このCの回路を壊しにきている。

「時定数ゼロの世界で人間は何を握るのか」で書いたように、AIはあらゆるスキルの時定数を圧縮する装置だ。コードを書く、文章を作る、分析する、設計する、判断する——「AGI前にする最後の努力」で列挙した「陳腐化していくもの」のリストは、そのまま様式Cで売れなくなる商品のリストでもある。

労働力という商品が値崩れし、最終的には買い手がつかなくなる。

「何でもするから飯をくれ」と叫んでも、「何もしなくていい」と返される未来。一見やさしい。でもそれは、交換の席そのものが消えることを意味する。

「仙人と天才」では、天才は「有限に張る人」だと書いた。天才は時定数が縮んでも、その中で全力を出すことに意味を見出す。でもこの記事で問いたいのは、天才として張れる人の話じゃない。張るものが何もない状態の話だ。差し出すものがなくなった人間が、どの席に座るのか。


3. 贈与の呪い——様式Aが教えること

交換の席が消えるとき、何が起きるか。ここでマルセル・モースの贈与論が補助線になる。

モースは未開社会の贈与を分析して、そこに三つの義務を見出した。与える義務、受け取る義務、返礼の義務。贈り物は善意の自発的行為に見えるが、実際には返さなければならないという強制力を内包している。マオリ族はそれを「ハウ」と呼んだ。贈られた物には霊力が宿っていて、持ち主のもとに帰りたがる。返さなければ呪われる。

これは様式Aの話だ。そして様式Aが教えてくれるのは、返礼できない者は共同体から排除されるということ。

贈与の呪い。それは返せないことの呪いだ。

Cが壊れたとき、Aに戻ればいいじゃないかと思うかもしれない。助け合い、贈り合い、分かち合い。でもAの循環に入るためにも、返すものが要る。何かを持っていなければ、贈与のテーブルにすら着けない。労働力を失い、スキルを失い、「差し出せるもの」をすべて失った人間に、Aの席もない。

Cの席を追われ、Aの席にも着けない。残る椅子はひとつしかない。


4. 様式Bへの回帰——保護と服従

様式B。服従と保護。

支配者が食わせてやる。代わりに、従え。国家の原理。封建制の原理。

イーロン・マスクは「ユニバーサル・ハイ・インカム」と言った。ベーシックインカムじゃない。ハイ・インカム。最低限じゃなくて高水準の所得を全員に配る。AIとロボットが生み出す富を分配して、全人類が豊かに暮らせる世界。

美しいビジョンだと思う。でも、構造を見てほしい。

世界一の金持ちが「配る」と言っている。配る側と配られる側がいる。配る側が条件を決め、配られる側はそれを受け取る。返すものがないから、返礼の義務は果たせない。残るのは「受け取ること」と「従うこと」だけだ。

これは贈与じゃない。様式Bそのものだ。テック企業が国家に代わって保護者になり、人間が「自発的に」服従する世界。

マスクが善人かどうかは関係ない。問題は構造だ。「みんなのやりたい仕事の未来」で書いた「品質スタンプ」としての学歴は、まだ様式Cの中の話だった。免責のために人間を雇う——少なくともそこには交換が成立していた。でもハイパーインカムの世界では、その交換すらなくなる。

返礼できない者は、贈り手に従属する。モースが百年前に見抜いたこの原理は、AIの時代にもそのまま作動する。


5. 鬼畜——呪いの外にいる人間

ここまで書いてきて、C→A→Bと椅子を巡ってきた。どこに座っても苦しい。でも、起業してからいろんな人間を見てきて、気づいたことがある。

この苦しみを感じない人間がいる。

鬼畜、としか呼びようがない。

もらって返さない。恩を感じない。モースの三つの義務のうち「返礼」をまるごと踏み倒す。人の善意をコストゼロで受け取り、何の痛みもなく次に行く。僕はそういう人間を何人か見てきた。共同体はそういう存在を嫌悪する。僕も嫌いだ。

でも、こう考えてしまう。Cが壊れ、Aにも戻れず、Bに従属するしかない世界が来たとき——こいつらの方が生きやすいんじゃないか。

返さなきゃという回路が作動しない。ハウが宿らない。呪われない。だから身軽に、速く動ける。Bの席に座っても「従属している」という負い目がない。配られるものを受け取って、何の痛みもなく使い切る。贈与の呪いが社会全体にかかる時代に、呪いの外にいる人間だけが平気な顔で生きていける。

僕はそうなれない。もらったら返さなきゃと思う。助けてもらったら負い目を感じる。対等でありたいと願う。恩義を感じ、その恩義に縛られる。それが自分の「まともさ」だと思ってきたし、今でも思っている。

でもモースの理論に照らせば、その「まともさ」こそが呪いの発動条件だ。贈与の呪いは、まともな人間にしか効かない。鬼畜には効かない。

そして、呪いにかからない人間が得をする世界は、まともな人間が損をする世界でもある。


6. 結び——呪われたまま、どう生きるか

柄谷行人は交換様式の先に、Dという理想を置いた。A・B・Cすべてを超克した、来るべき新しい連合。

鬼畜になれば楽になれる。Bに従えば食える。でもどちらも嫌だ。

じゃあどうするのか。正直、分からない。

分からないけど、一つだけ確かなことがある。

「何を失えば食えるのか」じゃない。「もう何を失っているのか」だ。

この問いを持っていること自体が、鬼畜との違いだ。鬼畜は問わない。Bに組み込まれた人間も問わない。問う余裕がないから。

呪いにかかったまま、問い続けること。返したいと思い続けること。交換の席がなくなっても、席を探し続けること。それが答えなのかどうかすら分からない。でも、鬼畜にならずに生きるというのは、たぶんそういうことだ。

何でもするから飯をくれ。

この叫びが通じなくなる日が来ても、叫ぶことをやめたくない。差し出すものがなくなっても、差し出そうとする意志だけは手放したくない。それが呪いだとしても。