友達ショート — 制作コスト0の世界で、私たちは何を失うのか
/内藤 剛汰
パーソナライゼーションがミームの同期を解除する。共通体験という通貨が消えるとき、私たちは友達をショートしている。
1. 料理人の父が語った「究極のわがまま」
父はフレンチの料理人です。
高校を出てすぐ厨房に入り、数十年間、毎日同じ鍋を振ってきた人間です。包丁を握る手の感覚と、火加減を見る目と、何百回と繰り返して身体に刻んだ調理工程——そのすべてが「制作コスト」です。仕込みに3時間、調理に1時間。一皿を出すまでに、材料費だけでなく、途方もない時間と身体的な負荷がかかります。
ある日、父にこう聞きました。
「もし材料費がゼロで、手間もゼロだったら、何をしたい?」
父は少し考えて、こう言いました。
「同じテーブルに座っている4人に、全員違う料理を出したい」
一人は牛肉が好きだから牛フィレのロッシーニを。隣の人は魚が好きだから舌平目のムニエルを。体調が悪そうな人にはコンソメの澄んだスープを。最後の一人は甘いものが食べたそうだから、デセールから始めるコースを。
全員の好みと体調と気分を読み取って、一人ひとりに完璧にカスタマイズされた一皿を出す。それが、制作コストの呪縛から解放された料理人の夢だ、と。
聞いた瞬間、美しいと思いました。究極のホスピタリティです。
しかし、同時に言語化できない違和感がありました。その違和感の正体に気づくまでに、少し時間がかかりました。
父が語った「全員に違う料理を出す」という夢は、あるものを静かに殺します。
「同じものを食べて、『美味しいね』と言い合う時間」です。
同じコース料理を食べ、同じタイミングで「このソース最高だな」と目を合わせ、同じ皿の上の同じ素材に対して、それぞれの感想を交換する。その時間が、私たちが「友達と食事をする」と呼んでいたものの本体だったのではないでしょうか。
父の善意は、疑いようがありません。一人ひとりに最高の体験を届けたい、というプロの矜持から出た言葉です。しかしその善意が完璧に実行されたとき、4人はもう「一緒に食事をしている」のではなく、たまたま同じテーブルに座って、それぞれ別の体験をしている4人の個人になります。
この構造に、いま私たちが生きている世界が重なって見えました。
2. 「共感」のコストが崩壊する
ここで「ショート」の話をします。
金融用語の「ショート(空売り)」とは、ある資産の価値が下がる方に賭けるポジションのことです。株でもコモディティでも、「これは将来値下がりする」と判断したとき、先に売っておいて、実際に下がったところで買い戻し、差額を利益にします。
私たちは今、無意識のうちに「友達」という概念をショートしているのではないか。つまり、友達の価値が将来下がる方に賭けているのではないか。そういう仮説です。
なぜそう思うのか。順を追って説明します。
共通体験という通貨
かつて「友達」とは、共通体験を蓄積する相手でした。
同じ教室で同じ授業を受けます。同じテレビ番組を観ます。同じ音楽を聴きます。同じ映画を観て、翌日「あのシーン良かったよな」と語り合います。同じレストランで同じコース料理を食べて、「あの前菜やばかったね」と帰り道に振り返ります。
この「同じものに触れた」という事実が、共感の原資でした。共通体験は、友人関係における通貨のようなものです。この通貨が蓄積されるほど、友人関係は「資産」として厚みを増します。昔の友人に久しぶりに会って、「あの時のあれ覚えてる?」と言える関係は、長年にわたって蓄積された共通体験の複利によって成り立っています。
制作コストの崩壊
ここに、制作コストの崩壊という変数が入ります。
かつてクリエイティブには莫大なコストがかかりました。映画を1本作るのに数十億円。音楽アルバムを1枚制作するのに数百万円。記事を1本書くのに何時間もの取材と執筆。このコストの高さが、供給を制限していました。供給が制限されているから、私たちは否応なく「同じもの」を消費しました。選択肢が限られていたのです。
テレビのチャンネルが7つしかなかった時代、月曜日の朝に教室で「昨日のドラマ観た?」と聞けば、高確率で「観た」と返ってきました。なぜなら、他に観るものがなかったからです。この「他に選択肢がない」という制約が、共通体験を強制的に生み出していました。
SNSの推薦アルゴリズムは、この制約をすでに壊し始めていました。
生成AIは、それを最後まで押し進めます。
テキスト、画像、音楽、動画——あらゆるクリエイティブの制作コストが限りなくゼロに近づいています。供給の天井が消えたのです。コンテンツは無限に生成されます。そして、アルゴリズムは一人ひとりの嗜好に合わせて、あなた専用のコンテンツを選び出し、あるいは生成します。
TikTokのFor Youページ、Instagramの発見タブ、FacebookやThreadsの推薦フィードを思い出してください。隣に座っている友人のタイムラインと、あなたのタイムラインは、1mmも重なっていません。同じアプリを開いているのに、見ている世界が完全に別です。
これが、父の語った「全員に違う料理を出す」と同じ構造です。
パーソナライゼーションの極致。一人ひとりに最適化された体験。それは確かに「個人としての満足度」を最大化します。しかし、隣にいる人間との共通体験をゼロにするのです。
3. Metaが認めた「友達フィード」の終わり
ここで重要なのは、この話が懐古趣味ではないことです。
SNSを作った側も、同じ構造を認識しています。
2025年5月、マーク・ザッカーバーグはStratecheryのインタビューで、Metaのプロダクトにはこれまで「two major epochs」があったと語りました。
第1期は、友達と共有し、友達からコンテンツを受け取る時代。第2期は、その上にクリエイターコンテンツの巨大な層を重ね、アルゴリズムで推薦する時代。そして第3期は、AI生成コンテンツが爆発する時代です。
同じ整理は、2025年10月のMeta Q3決算説明会でも繰り返されています。ソーシャルメディアは、友達・家族・直接フォローしたアカウントの時代から、クリエイターコンテンツの時代へ移った。そしてこれから、AIが作成とリミックスを容易にすることで、さらに巨大なコンテンツの塊を追加していく、と。
これはMetaの反省文ではありません。
事業戦略の説明です。
ザッカーバーグは、友達の投稿が消えるとは言っていません。むしろ残ると言っています。しかし、残ることと、中心であり続けることは違います。
Facebookはもともと、友達の近況を見る場所でした。誰かの結婚式、子どもの写真、旅行のアルバム。知らない誰かの最高に編集された動画ではなく、知っている誰かの少し退屈な生活を見る場所でした。
でも、いまフィードの主役は、自分の友達ではありません。アルゴリズムが「あなたに刺さる」と判断したコンテンツです。
ザッカーバーグ自身も、いまのFacebook、Instagram、Threadsを「discovery engines」と呼びました。フィード内で交流するのではなく、フィードで面白いものを見つけ、それをDMやグループチャットに送る。そこに本当の社会的相互作用が移っている、と説明しています。
ここに、SNS時代の友達ショートがあります。
友達は消えたのではありません。
フィードの担保資産ではなくなったのです。
昔のSNSでは、友達が投稿するからフィードを見る価値がありました。いまは、フィードが面白いから、その一部を友達に送る。主語が反転しています。
友達がコンテンツの供給源だった時代から、コンテンツが友達との会話の素材になる時代へ。
これは小さな変化に見えますが、資産構造としては大きいです。
友達の価値は、フィードの中で直接発生するものではなくなりました。友達は、アルゴリズムで発見したものを転送する相手、あるいはグループチャットで反応を返してくれる相手に移動した。つまり友達は、SNSの中心から周辺へ、一次資産から二次流通市場へ移ったのです。
そして第3期、AI生成コンテンツが入ってきます。
クリエイターですらない。誰かが作ったわけでもない。あなたに合わせて作られるコンテンツです。そこでは「友達が見たものを自分も見る」確率はさらに下がります。
「友達の結婚式の写真がインフルエンサー投稿に負けた」という比喩は、ザッカーバーグの原文には出てきません。でも構造としては正しい。正確には、友達の写真はインフルエンサーに負けたのではなく、推薦可能なコンテンツ総量に希釈されたのです。
SNSは「友達の近況を知る道具」から、「個人の退屈を最適に処理する装置」へ変わりました。
この変化は、悪意で起きたわけではありません。むしろユーザーの満足度を上げるために起きた。面白いものを出す。滞在時間を増やす。発見を増やす。友達の退屈な近況より、知らないクリエイターの強い動画の方が見られる。さらにAIなら、あなた専用に無限に作れる。
でも、その最適化が進むほど、友達はショートされます。
「友達の投稿が面白くない」からではありません。
友達を経由しなくても、世界が面白くなってしまったからです。
4. なぜ「友達ショート」なのか
ここで、ポジションの話に戻ります。
共感の資産価値の下落
共通体験が「友達」という資産の裏付けだとしたら、共通体験が消滅するということは、この資産の価値が構造的に下落するということです。
以前は、友人と映画を観に行くことには二重の価値がありました。一つは映画そのものを楽しむ価値。もう一つは、同じ映画を観たという事実を共有する価値です。後者が、友人関係を維持・強化するための投資でした。
しかし、一人ひとりに最適化されたコンテンツが無限に供給される世界では、わざわざ他人と同じものを消費するインセンティブが消えます。自分の好みに100%合致するAI生成コンテンツが手元にあるのに、なぜ友人の趣味に合わせて自分にとって70点の映画を一緒に観なければならないのか。
合理的に考えれば、答えは明白です。自分専用のコンテンツを消費する方が効率がいい。
流動性の過剰
さらに、人間関係そのものの流動性も上がっています。
SNSのおかげで、「友達」のポートフォリオは常にリバランスされます。共通の話題がなくなった友人はフェードアウトし、新しい興味で繋がった人が流入します。友人関係は、かつての「長期保有する資産」から、頻繁に売買される流動性の高い銘柄に変わりました。
そしてこの流動性は、生成AIの登場でさらに加速します。なぜなら、人間の友人が提供していた機能の多くを、AIが代替できるようになるからです。
壁打ち相手が欲しい? AIがいます。共感してほしい? AIは24時間、あなたの話を聞いてくれます。新しい知識を教えてほしい? AIの方が正確で、しかもあなたの理解度に合わせて説明を調整してくれます。
友人関係を維持するにはコストがかかります。連絡を取り、予定を合わせ、相手の機嫌を気にし、時には自分の時間を犠牲にします。このメンテナンスコストに対して、得られるリターンが減少しているのです。共通体験がなくなり、友人固有の機能がAIに代替される世界では、友人関係の期待リターンが、維持コストを下回る。
私たちは売っている
ここまでの構造を整理します。
制作コストの崩壊により、コンテンツの供給が無限になった
パーソナライゼーションにより、共通体験が消滅しつつある
共通体験は友人関係の裏付け資産であり、それが消えれば友人関係の価値は下落する
友人が提供していた機能の多くをAIが代替可能になった
友人関係の維持コストは変わらないのに、期待リターンは下がり続ける
この構造の中で、私たちは日々の行動を通じて、暗黙のうちに「友達の価値は下がる」方にベットしています。
SNSで浅い繋がりを増やし、深い関係を減らしているとき。
友人と会う代わりに、自分専用のタイムラインをスクロールしているとき。
誰かに相談する代わりに、AIに聞いているとき。
私たちは友達をショートしています。
意識的にやっているわけではありません。誰も「友情の価値が下がると思うから、友人関係を売っておこう」などと考えてはいません。しかし、行動の集積は、そのポジションを明確に示しています。
5. ミームの宿主が死ぬとき——利己的な遺伝子と、もう一つの遺伝子
ここで、話のスケールを一段上げます。個人の損得や「友達がいた方がいいよね」という道徳論ではなく、種としてのホモ・サピエンスの話をします。
リチャード・ドーキンスの「ミーム」
1976年、リチャード・ドーキンスは『利己的な遺伝子』の中で、生物学的な遺伝子(gene)と対になる概念としてミーム(meme)を提唱しました。
遺伝子が身体の設計図を親から子へ伝える「生物学的な複製子」であるように、ミームは文化の設計図を脳から脳へ伝える「文化的な複製子」です。歌のメロディ、料理のレシピ、宗教の教義、科学の理論、ファッションの流行——これらはすべてミームです。人間の脳に寄生し、模倣(imitation)を通じて次の脳へとコピーされ、変異し、淘汰される。ドーキンスは、文化の進化は遺伝子の進化と同じダーウィン的プロセスに従うと主張しました。
重要なのは、ミームの複製メカニズムです。
遺伝子の複製には生殖が必要です。精子と卵子が出会い、DNAがコピーされます。では、ミームの複製には何が必要か。
共通体験です。
同じ歌を一緒に歌うとき、そのメロディというミームが複製されます。同じ料理を一緒に食べるとき、「美味しいものとは何か」という味覚のミームが伝播します。同じ映画を観て語り合うとき、物語の構造や価値観というミームが脳から脳へコピーされます。
ミームは空気感染しません。本を読む、話を聞く、一緒に体験する——何らかの形で同じ情報に触れるというプロセスを経なければ、ミームは複製されないのです。
ホモ・サピエンスはミームの種である
ここで、ホモ・サピエンスという種の特殊性を考えます。
ホモ・サピエンスは、身体的には脆弱な種です。爪は短く、牙はなく、走る速さはチーターの半分以下です。個体としての戦闘力なら、ゴリラにもライオンにも勝てません。
にもかかわらず、この種が地球上のあらゆる環境を支配できたのは、文化を蓄積し、伝達する能力——つまりミームを扱う能力が、他のどの種よりも圧倒的に高かったからです。
ユヴァル・ノア・ハラリは『サピエンス全史』で、ホモ・サピエンスの成功の鍵を「虚構を共有する能力」だと論じました。神話、宗教、国家、法律、貨幣——これらは全て、複数の人間が「同じ物語」を信じることで初めて機能するフィクションです。そしてこの「同じ物語を信じる」というプロセスこそ、ミームの大規模な同期的複製に他なりません。
150人——ダンバー数と呼ばれる、霊長類が自然に維持できる社会集団の上限です。ホモ・サピエンスが150人を超える集団を形成し、数万人、数百万人、数十億人の単位で協力できるようになったのは、ミームの力です。会ったことのない人間同士が、「日本」という同じ物語を信じ、「円」という同じフィクションを信頼し、「法律」という同じルールに従う。これはすべて、ミームが大量の脳に同期的に複製された結果です。
つまり、ホモ・サピエンスとは、ミームを高速かつ大規模に複製・同期する能力によって地球を支配した種なのです。
生成AIはミームの伝播経路を断つ
ここで、前章までの議論が合流します。
制作コストの崩壊とパーソナライゼーションの極致は、ミームの同期的複製を破壊するのです。
かつて、テレビは巨大なミーム同期装置でした。7つのチャンネルから流れる同じ映像を、数千万人が同時に視聴する。翌朝、学校や職場で「昨日のあれ観た?」と確認し合う。このプロセスを通じて、同じ物語、同じ価値観、同じ笑いのツボが、社会全体に同期的に複製されていました。
生成AIは、この同期を解除します。
一人ひとりが自分専用のコンテンツを消費する世界では、ミームは同期的に複製されなくなります。あなたの脳に入るミームと、隣の人の脳に入るミームが、異なるものになるのです。同じ社会にいるのに、同じ物語を信じていない。同じ通貨を使っているのに、同じ価値観を共有していない。
これは、個人の嗜好の問題ではありません。種としてのホモ・サピエンスのアーキテクチャに対する構造的な変更です。
ホモ・サピエンスが他の種と決定的に異なるのは、遺伝子だけでなくミームによっても進化してきた点です。私たちの脳は、ミームを受信し、保存し、変異させ、送信するために最適化されています。言語、共感能力、模倣本能——これらの認知機能はすべて、ミーム伝播のためのハードウェアです。
生成AIがもたらすパーソナライゼーションは、このハードウェアの用途を変えます。ミームを「他者と共有する」ためではなく、「自分だけのために消費する」ために使い始めるのです。送信機能を失った受信機。共有されないミームは、もはやミームではありません。それはただの個人的な嗜好です。
しかし、AIはミームの新しい同期を育むのか?
ここで、自分自身の主張に反論しておきます。
「生成AIがミームの同期的複製を破壊する」——この主張はインパクトがありますが、完全に一方向的ではありません。実際、AIはミームの進化を阻害するどころか、新しい形で加速させている側面があります。
TikTokを再び見てみましょう。先ほど私は「For Youページは一人ひとり違う」と書きました。これは事実です。しかし、同時にTikTokには「トレンド」という強力なミーム同期装置が組み込まれています。
トレンドサウンドが流行ると、数百万のユーザーが同じ音源を使って自分のバージョンの動画を作ります。パーソナライズされたFYPの中で個別最適化されつつも、トレンドタブやDuet機能やStitchを通じて、急速に同期・拡散される。これは、テレビ時代の「全員が同じものを同時に受信する」同期とは異なりますが、ミームの複製という意味では、むしろ以前より高速で大規模です。
さらに興味深いのは、AI生成ツールがこの構造を加速させていることです。2025年頃から、AIで生成された風刺動画やミーム画像がSNS上で爆発的に拡散される現象が起きています。Viggle AIのようなツールで静止画を動画化し、友人同士でシェアする。AIミームジェネレーターで顔写真をミーム化し、グループチャットに投げる。これらは「個人適合度が高い」ミームでありながら、プラットフォームのネットワーク効果で伝統的な同期複製を模倣・強化しているのです。
ドーキンスの言葉で言えば、ミームの複製子が変異し、AIという新しい宿主を得て進化している。絶滅ではなく、適応です。
では、何が問題なのか
しかし、それでも問題は残ります。
TikTokのトレンドやAI生成ミームが生み出す「新しい同期」には、決定的な特徴があります。選択的である、ということです。
テレビ時代の同期は強制的でした。チャンネルが7つしかなければ、選ぶ余地が限られます。同じクラスの全員が、好むと好まざるとにかかわらず、同じ番組に触れました。この「強制的な共通体験」が、趣味も性格も異なる人間同士を「同じ文化を共有する仲間」にしました。
TikTokのトレンドは、そうではありません。トレンドに乗るかどうかは、ユーザーの選択です。そして、アルゴリズムが各ユーザーの嗜好を学習するにつれ、表示されるトレンドすらパーソナライズされていきます。あるユーザーには料理系のトレンドが表示され、別のユーザーにはダンス系のトレンドが表示される。トレンドは共有されているように見えて、実はクラスタごとに分断されているのです。
つまり、AIが生み出す「新しい同期」は、同質的なクラスタ内の同期であって、異質な他者との同期ではない。似た趣味、似た世代、似た価値観の人間同士では確かにミームが高速に複製されます。しかし、自分とは異なる人間——父の食卓に座る、好みも体調も気分も違う4人——の間でミームを同期させる力は、むしろ弱くなっています。
ホモ・サピエンスの文明を支えてきたのは、クラスタ内の同期ではありません。クラスタを超えた同期です。異なる部族が「神」という同じ物語を信じることで同盟を結び、異なる民族が「国家」という同じフィクションを共有することで数百万人規模の社会を構築した。この「異質な他者とのミーム同期」こそが、ダンバー数を超えた協力を可能にしたホモ・サピエンスの切り札でした。
AIは、クラスタ内のミーム同期を爆速にする一方で、クラスタ間のミーム同期を静かに溶解させているのです。
私たちはホモ・サピエンスを変えようとしている
ドーキンスの枠組みに沿って言えば、生成AIが行っているのは、ミームの淘汰圧の書き換えです。
かつてのミームの淘汰環境では、「多くの脳に同時に複製されるミーム」が生存競争に勝ちました。キャッチーなメロディ、分かりやすい物語、共感を呼ぶ価値観——これらは「共有されやすい」という形質を持ったミームであり、だからこそ文化の中で生き残ってきました。
AIの時代、淘汰圧は二方向に分岐します。一方では、「特定のクラスタに深く刺さるミーム」がアルゴリズムに乗って爆発的に複製される。TikTokのトレンドはこちらです。もう一方では、クラスタを横断して異質な脳同士を繋ぐミーム——かつて宗教や国民国家が担った「大きな物語」——の淘汰圧が急速に弱まっています。
ミームが死ぬのではありません。ミームの生態系が変わるのです。多様な種が共存する熱帯雨林から、それぞれの環境に特化した種だけが繁殖する孤立した島々へ。ガラパゴス化するミーム圏。
ホモ・サピエンスは20万年かけて、ミームを共有するためのハードウェア(脳)とソフトウェア(言語・文化・社会制度)を構築してきました。生成AIは、わずか数年で、そのソフトウェアの根本ロジックを書き換えようとしています。
友達をショートするとは、単に「人間関係が希薄になる」という話ではありません。
ホモ・サピエンスをホモ・サピエンスたらしめてきた、ミームのクラスタ横断的な同期——異質な他者と物語を共有する能力——を、静かに手放そうとしているのです。
6. それでも、同じ皿の前に座る
私たちが無意識に取っている「友達ショート」のポジションを、簡単に否定することはできません。
生成AIは、確かに個人の満足度を高めます。
自分の好みに合った文章。
自分の気分に合った音楽。
自分の文脈を理解してくれる会話。
自分のためだけに生成される映像。
それらは、雑に「悪いもの」として片づけられるようなものではありません。
むしろ、多くの場合、それは優しい。
退屈を埋めてくれる。
孤独を薄めてくれる。
理解されない感覚を、一時的にでも和らげてくれる。
AIで作ったミームを友達に送って、一緒に笑うこともあるでしょう。
TikTokのトレンドのように、パーソナライズされながらも爆発的に共有される文化もある。
ミームの複製子は死んでいません。
形を変え、新しい宿主を見つけ、別の速度で増殖している。
だから、ここで「AIではなく友達を選ぼう」と言うのは、たぶん違います。
そんな単純な話ではありません。
問題は、AIが友達を完全に代替するかどうかではない。
問題は、友達がいなくなるかどうかでもない。
もっと静かな変化です。
友達がいても、同じ世界を見ていない。
同じ部屋にいても、同じものに触れていない。
同じアプリを開いていても、流れてくるものが違う。
同じ時代に生きているはずなのに、それぞれが別々の島で、別々のミームを吸っている。
その状態を、私たちはまだ「一緒にいる」と呼べるのでしょうか。
かつて共通体験は、ある程度、勝手に発生していました。
テレビのチャンネルは限られていました。
流行っている曲は、街でも学校でも店でも流れていました。
映画館に行けば、みんなが同じスクリーンを見ていました。
教室で「昨日のあれ観た?」と聞けば、誰かしらが同じものを観ていました。
もちろん、それは不自由でもありました。
選択肢が少なく、個人の好みは雑にまとめられ、誰かにとっては退屈で、誰かにとっては暴力的ですらあった。
でも、その不自由さが、偶然の一致を生んでいました。
好きでもない番組を、なんとなく観てしまう。
自分では選ばない曲を、友達が流しているから聴いてしまう。
本当は別のものを食べたかったのに、同じコース料理を食べることになる。
そういう小さな不自由の中で、私たちは他人の世界に触れていたのかもしれません。
制作コストがゼロに近づく世界では、この不自由が消えていきます。
一人ひとりに違う料理を出せる。
一人ひとりに違う動画を出せる。
一人ひとりに違う物語を出せる。
一人ひとりに違う慰めを出せる。
それは、明らかに進歩です。
少なくとも、個人の満足度という尺度では。
けれど、その進歩の中で、何かが静かに薄まっている気がします。
同じものを見て、同じタイミングで笑うこと。
同じ皿を前にして、同じ沈黙を共有すること。
自分に最適化されていないものを、誰かと一緒に受け取ること。
それは効率が悪い。
個人最適ではない。
アルゴリズムから見れば、ノイズかもしれない。
でも、友達というものの本体は、案外そのノイズの中にあったのではないでしょうか。
父が作る「全員同じコース料理」は、個人最適の観点からは確かに劣ります。
牛肉が好きな人にも、魚が好きな人にも、少し体調が悪い人にも、甘いものから始めたい人にも、同じ流れで料理が出てくる。
一人ひとりに完璧ではない。
誰かにとっては少し重く、誰かにとっては少し物足りなく、誰かにとっては本当は別の皿の方がよかったかもしれない。
それでも、4人は同じ皿を見ています。
同じソースの香りを受け取り、同じタイミングでナイフを入れ、同じ一口に対して、それぞれ違うことを思う。
完全に同じ感想を持つわけではない。
むしろ、違う人間だから、感じ方は違う。
けれど、その違いは「同じものに触れた」という土台の上で初めて交換されます。
同じものを食べているから、違う感想が言える。
同じ映画を観ているから、違う解釈が生まれる。
同じ出来事に立ち会っているから、「私はこう思った」と言える。
共感とは、全員が同じ気持ちになることではないのかもしれません。
同じ対象を前にして、違う人間でいられること。
そして、その違いを交換できること。
だとすれば、パーソナライゼーションが奪うのは、共感そのものではありません。
共感が発生するための、共通の足場です。
友達が消えるのではありません。
友達と話すことも、会うことも、笑うことも、これからも残るでしょう。
むしろ、AIによって話題は増えるかもしれない。
面白い動画を送り合う。
生成した画像を見せ合う。
AIとの会話をスクショして笑う。
友達は残る。
でも、友達を中心に世界を見るという配置は、少しずつ崩れていく。
昔の友達は、世界への入口でもありました。
友達が聴いている音楽を聴く。
友達が好きな映画を観る。
友達が連れて行ってくれた店で食べる。
友達の言葉を通じて、自分の外側にある世界を知る。
いま、世界への入口は友達ではなく、フィードになりました。
検索窓になりました。
推薦アルゴリズムになりました。
そしてこれからは、生成AIになる。
そのとき友達は、世界への入口ではなく、世界を見たあとに感想を送る相手になるのかもしれません。
それが悪いことなのか、私にはまだ分かりません。
ただ、何かが変わっている。
制作コストがゼロになる世界で、私たちが本当に失うかもしれないのは、コンテンツの質でも量でもありません。
「同じものに触れた」という、非効率で、不自由で、かけがえのない事実です。
そして、その事実が失われたとき、友達という言葉の意味も、少しずつ変わっていく。
友達を失うのではない。
友達が何だったのかを、思い出せなくなるのかもしれない。
父の食卓には、まだ同じ皿があります。
4人が同じ料理を食べている。
それぞれ別のことを考えながら、同じ皿の前に座っている。
その時間が、どれほど古く、どれほど非効率で、どれほど人間的なものだったのか。
制作コストがゼロになったあとで、私たちはようやく気づくのかもしれません。
同じものを選ばされることは、不自由だった。
でも、同じものを見られることは、奇跡でもあった。
僕たちはまだ、誰かと同じ皿の前に座れるのでしょうか。